世界の見方と戦争――ブッシュのイラク戦争①

世界の見方は、国家指導者の政策決定、時に戦争開始の判断に多大な影響を及ぼす。そこで今回は、イラク戦争(2003-11)開戦決定過程において、アメリカのいわゆる「ネオコン」や「主張するナショナリスト」ら外交的タカ派の世界観がブッシュの意思決定に与えた影響を事例に取り上げる。

 

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2001年9月11日の同時多発テロにより、アメリカ資本主義の牙城ともいわれた世界貿易センタービルは完全に倒壊し、世界最強の軍事国家であるアメリカの国防総省ビルまでもが攻撃を受けた。G・W・ブッシュ大統領は、対テロ戦争の名目でアフガニスタン戦争を起こし、タリバン政権を崩壊させアルカーイダの掃討にほぼ成功した。さらにブッシュは、翌年1月の一般教書演説において、イラク大量破壊兵器を開発・拡散している「悪の枢軸」だと宣言し、その翌年にはイラクを攻撃したが、大量破壊兵器が見つかることはなく、イラク戦争は却ってアメリカの国際社会における権威を失墜させる結果となった。

 

イラク戦争におけるアメリカのコスト‐ベネフィットを見る限り、イラク攻撃が必ずしも合理的な政策判断であったとは言い難い。またサダム・フセインと9・11テロ事件との関係については、当初から様々なメディアで希薄であるともいわれていた。それにも拘らず、なぜアメリカはイラク戦争を仕掛けたのだろうか。本稿では、イラク戦争開戦までの経緯を振り返りながら、イラク戦争開戦要因の一つであるといわれる、ネオコンをはじめとする外交的タカ派の政策提言がブッシュの意思決定に与えた影響について再考することを試みる。まずは、アメリカが大きく関与していた1990年代の中東情勢からアフガニスタン戦争までの流れを概観していくこととしたい。

 

1.1990年代の中東~アフガニスタン戦争

 

(1)90年代の中東におけるアメリカの軍事戦略

1990年8月、イラククウェートに侵攻した。軍事侵攻の原因としては、イラン=イラク戦争の際の対イラク債権をクウェートが帳消しにせず、また石油価格などの面においても同じアラブ国家であるイラクを支援しなかったことなどが挙げられる。イラククウェート侵攻に対し国連安保理は非難決議を採択し、イラクへの経済制裁を開始した。しかしイラクは外国人を「人間の楯」として人質にするなどして抵抗したため、安保理は11月末、いわゆる武力行使容認決議(678号)を採択し、これに基づく多国籍軍による攻撃が行われた。

 

1991年1月から4月にかけての湾岸戦争では、「二聖地の守護者」を標榜し外国軍を受け入れるはずのなかったサウジアラビアをはじめとする湾岸諸国は、イラクの脅威に対抗してアメリカ主導の多国籍軍を支持し、その地に部隊を受け入れた。その結果、イラク湾岸戦争で敗れ、クウェートからの撤退、大量破壊兵器の破棄などの義務を負い、アメリカ主導の対イラク国際レジームの制裁下に置かれ続けることとなった(※)

 

(※) レジームとは、「国際関係の特定問題領域における、諸主体の期待が収斂するところの黙示的あるいは明示的な原則、規範、規則、意思決定手続の集合」(スティーヴン・クラズナー)、「諸国家の交渉によって合意された明示的なルールを備えた制度」(ロバート・コヘイン)。

 

また、1992年3月8日付のニューヨーク・タイムズ紙が「米国戦略計画はいかなるライバルも出現しないことを求める」の見出しで報じたアメリカ国防省の戦略の中に、以下の項目が含まれていた。

 

イラク北朝鮮等での核兵器、他の大量破壊兵器の拡散を防ぐため、軍事使用の計画を考える。これを許すと日独の核保有国化を誘導し、結果として米国との世界規模での競争を招く」

 

国防省は当時、議会に対し軍事予算の維持を正当化すべく、イラン・イラク北朝鮮などの諸国が大量破壊兵器を保有することの危険性が、アメリカにとって最大限の脅威であることを指摘していた。このような脅威認識を背景にした軍事戦略は、9・11同時多発テロ事件の起きる2001年まで一貫して追求された。冷戦後の米国戦略の核心はイラン・イラク北朝鮮を脅威の源泉と見なすことであり、これらの脅威がいかに深刻であるかを国民に示すことで軍事費の削減を回避することが、90年代の国防当局の課題であった。

 

(2)9・11テロ事件とアメリカの反応 

2001年9月11日、ハイジャックされた2機の航空機がニューヨーク世界貿易センタービルに激突、その1時間後には南北両棟とも倒壊した。さらに、もう1機のハイジャックされた航空機がペンタゴン(米国防総省ビル)に激突した。その5分後、ブッシュ大統領はチェイニー副大統領に連絡し、「われわれは戦争状態にある」と告げ、議会の指導者グループに要旨説明を行うように命じている。また、ピッツバーグ近郊にも航空機が墜落しており、一連のテロにより約3000人の命が犠牲となった。

 

ブッシュはテロ発生の翌日に「これはテロを超えた戦争行為である」と述べ、自由と民主主義を守るための戦い、21世紀最初の新しい戦争をアメリカは展開すると宣言した。また、ブッシュは9月20日の上下両院合同会議での演説で、犯行はオサマ・ビン・ラディンを首謀者とする国際テロ組織アルカーイダによるものであると断定し、アルカーイダの本拠があるアフガニスタンタリバン政権に対してビン・ラディンの引き渡しとアルカーイダの解体を要求した。

 

(3)アフガニスタン戦争

タリバン政権がビン・ラディンの引き渡し要求を拒否したため、2001年10月7日、米空軍はアフガニスタン空爆を開始した。これに伴い、有志連合諸国はアフガニスタンを含むテロ組織勢力地域への「不朽の自由作戦」を実行した。アメリカを中心とする有志連合諸国軍は、その圧倒的な軍事力で12月7日にはタリバン政権を実質的に崩壊させ、12月の中旬にはアルカーイダの最後の砦トラボラ地区を制圧し、アルカーイダの掃討にほぼ成功した。

 

世界の見方と戦争――ブッシュのイラク戦争②