日本は「対テロ戦争」に向かう?

国際社会におけるイスラム過激派組織「イスラム国」掃討の気運が高まっている。

イスラム国」対策を担当するアレン(John Allen)米大統領特使は、イスラム国に制圧された領土奪還に向け、数週間以内に「イラク軍主体の地上軍が大規模な反撃に出る」ことを明らかにした。

 

また、先日開かれた米上院軍事委員会における指名承認公聴会では、カーター(Ashton Carter)次期国防長官が「イスラム国」を「永続的な敗北に追いやる」決意を表明し、有志連合の結束と、イラク軍やシリアの穏健派の反政府勢力を早急に育成訓練することの重要性を強調している。

一方、日本では「イスラム国」によって二人の日本人が殺害された事件を受け、各メディアで日本が「対テロ戦争」に踏み切るのではないか、という扇動的な報道が散見された。

 

彼らが、あくまでビジネスという視点から国民の不安を煽っているのか、はたまた本気で「日本が戦争をするのではないか」と不安を覚えているのか定かではないが、対国際テロリズムを強く意識した安全保障の強化が、なぜ「対テロ戦争」に直結するのだろうか。

 

そもそも安全保障とは、国民の生命や財産、延いては国の主権や領土といったかけがえのない価値、換言すれば死活的な国益を外敵の脅威から守ることである。或いはそれ自体が国益の追求ともいえよう。

 

では今の日本にとって、戦争をすることに国益を見出せるだろうか。

 

おそらく大半の日本人にとって、日本が戦争をすることで得られる利益、戦争によって追求すべき国益は何一つないはずだ。たとえそれが日本人を惨殺した「イスラム国」を相手とする「対テロ戦争」であったとしても、戦争をすることは日本の国益には決してならない。戦争は日本の国益の対極にある。

 

日本は戦後70年もの間、戦争を放棄し、平和国家としての道を歩んできた。たしかに、これまで日本の「一国平和主義」は、国際社会からの批判を浴びることも少なくなかったが、今後「積極的平和主義」を追求していくにしろ、戦争の放棄を放棄することに意義を見出すことはできないであろう。理想としての平和主義を掲げつつ、「現実の平和」を見据えていかなければならない。

 

そして「現実の平和」を追求していく上では、安全保障の手段の最たるものが軍事力であるという厳然たる事実を受け入れ、イデオロギーや感情論ではなく、論理的・合理的な思考を以て安全保障を確保していくことが求められる。

 

安全保障法制の整備や防衛費の増額、自衛隊の増強を含めたあらゆる軍備の政治目的は、「他国に対して軍事力の使用を危険だと思わせ、それを抑止すること」(モーゲンソー)、すなわち戦争をしない、挑ませないことにある。

 

一部メディアが「戦争のできる国」になるための政策と報道する防衛費増額、日米同盟の深化、集団的自衛権の限定的行使容認、防衛装備移転三原則等は、安全保障をより確固たるものとし、日本が「戦争をしない国」であり続けるための現実的な努力といえるものである。

 

たしかに戦後の日本は反軍国主義の社会規範がきわめて安定的であり、「軍事=戦争」というイメージが定式化している日本人にとって、軍事力の役割を直感的に理解することは難しいのかもしれない。

 

なぜ安全保障を確保するための手段として軍事が必要になるのか、それを理解するためには現実主義に立脚した「世界の仕組み」の理解と、歴史はもちろん、心理学や社会学などの視点も含め多角的に戦争の原因を考察することが必要になる。

 

無論、現代においては「イスラム国」など非国家主体が対象となるケースが増加していることを顧慮する必要はあるが、いずれにしろ戦争を抑止し平和国家であり続けるためには、戦争の原因を知り、戦争をしない、挑ませない努力をしなければならないことに変わりはない。

 

国の独立と主権、領土、国民の生命や財産といった死活的国益が直接的に危険に晒される戦争をいかに抑止し、いかに日本が平和国家であり続けるかという問題は、政治家だけでなく国民ひとりひとりが真摯に向き合っていくべきものである。

 

今回の人質殺害事件に対するマスコミの報道、あるいは逆に不健全な「右傾化」が蔓延る世論をみて、「右でも左でも中道でもなく、積み上げられてきた理論と歴史に基づいた世界の見方」を普及し、その上で自分の頭で考え、自分の言葉で表現し、行動していくきっかけを提供することを目的とする僕たちの活動は、もう少し続けていく必要があるように感じられた。